So-net無料ブログ作成
検索選択
前の8件 | -

イヤシロスベ [カタカムナ最前線]

革命家として最も重要な資質とは何かといえば、天然給与の生命力賦活能力だと考えている。この革命は人類のみならず、地球とよばれるチタマのイノチの顕われとして永続しなければならないため膨大なエネルギーを必要とする。その供給源を天然給与のカムヒビキの目的に応じた変換技術の総体によって維持する文明体系の構築を目指す。というのが天然永続革命すなわちイヤシロスベの骨子になる。

相似象解析2.jpg

形而上学としてのカタカムナ [カタカムナ最前線]

 位相解析.jpg


 当ブログ開設以来、様々な切り口でカタカムナを語ってまいりましたが、昨今の地球自然の惨状と人間世界の霊的混迷状況を見るにつけ、現代地球人類社会が抱える霊的諸問題を、全宇宙共通の霊的客観性にもとづいて認識する実用的実践哲学として、カタカムナの形而上学的有効性をいかにすれば発揮できるか、という課題に日々取り組んでまいりました。その結果、これまでのカタカムナに関する一切の記述は、新たに一から綴り直すべきとの考えにいたりましたことをご報告いたします。したがいまして、これまでの記述は新原稿と入れ替えに逐次改訂・削除いたしてまいりますので、ご承知おき下さるようお願い申し上げます。
 
 さて、まずはじめに、私が何故にこれほどまでにカタカムナにこだわるのか、その理由から申し述べねばならないと思います。それは
「真の世界平和の実現」
という唯一の目的を、この地球上で達成するには、カタカムナのサトリが最も有効な哲理たり得る、と直観するからです。 しかしながらここで言うところの世界平和の内実につきましては、既成の概念・価値観からすれば甚だかけ離れたものであることはお断りしておかねばなりません。それは人類が宗教と自然科学を手に入れる以前の根源的霊性に根ざしたものであらねばならないからです。そしてカタカムナこそが、その霊性を現代的に表現できる唯一の言語として機能すると確信するからです。

 もちろんこれは私がカタカムナのサトリを実践・実装した結果、当然の帰結としてそう考えるに至ったわけでして、それを人類全体の霊的共通認識として伝承することが、カタカムナのサトリによってもたらされた天命とも考えております。なぜなら、カタカムナ的常識からすれば
「世界平和の実現は 人類と地球自然の霊的調和によってのみなされる」
と、結論されるからです。

 人間社会は、その発生母胎である地球自然に対する畏敬の念を失ってしまったばかりか、バチアタリにも親殺しともいえる地球自然の破壊行為を、経済活動や戦争行為として日常化しています。そしてこのような状況下において、科学も宗教もまったく有効な役割を演じることが出来ていないのが現実です。それではなぜ、このような事態が改善されないのでしょうか。
 
 今、全世界を見回してみれば、国際社会の平和に対するアプローチは、イデオロギーの違いによって千差万別です。しかも、自然界の平衡安定を人間の社会生活を安定させることと同等に権利として認識するようなイデオロギーは、ごく一部の部族社会などに見ることができる、いわゆるスピリチュアルな、非常に特殊で限定的な社会集団にしか存在しません。とりわけ一神教(ユダヤ教•キリスト教•イスラム教)で構成される社会においては、自然は唯一絶対の創造神から人類に与えられたものという契約概念が存在するため、人類が自然界の一部であるという理念が存在しません。従って環境問題解決の動機も、人類社会のみの絶対的優先存続と安定的経済活動の維持拡大が目的とされるわけです。そして、世界の資本主義的経済活動や環境保護活動を先導しているのも、これら一神教徒の国々であるということが、世界平和実現上の大きな障害であると考えています。

 このような世界情勢の中にあって、日本の社会は少なからずアニミズム的な自然観を基底思念として持ち続けている社会だといえます。これはカタカムナのサトリが根底にあるが故の特性に他なりません。万物に宿る霊性を知識としてでなく通底感として認め、文明体系として日常的に神仏・八百万の神々に対する畏敬の念と科学的合理主義を共存させることが出来る文化文明的柔軟性は、カタカムナのサトリの平和的有用性の証明であると考えるべきことです。そしてこの日本民族に示される特性の現代的発揮こそが、地球上の真の平和実現のカギを握るものであり、カタカムナ人の末裔としての日本民族に課せられた使命であることを宣言するものです。


マニマニカムヒビキ [展 心 徒 然 草]


カムナマニ 音源ファイル [展 心 徒 然 草]

カタカムナな歌、うたってみました。

アマカムナカミ

マニマニ

 


霊性なる日常 [展 心 徒 然 草]

霊的覚醒者の孤独 あるいは 霊的二重人格者の多忙

 サトリ・霊的覚醒とはアタマ・智のめざめではなく、肉体を通した感受性としての感覚知の回復であり、全宇宙の霊性への回帰ともいえる。これはいわゆるクンダリーニと相似象をなす。
 
  ミキキして  カンずるヒビキの マノスベに  よりてサトリし  カシラハラ
 
 さて、人間界の言語によって霊的存在を表現する、ということは至難の業である。というより、人間の観念で霊的現実を表現しようとする試み自体が困難であるといった方がよい。なぜなら、今日人間界で使用されている言語のほとんどが 霊的日常からは遊離した観念の使用によって形成されていると考えられるからである。つまり 人間界の言語には、霊的本質に関する適切な表現が存在していないということでもある。
 霊的世界は人類の存在とはまったく関係なく存在している。人類とひとことで表現される自然現象の総体(これにはあらゆる社会的要素も含めてのことだが)は、確かに霊的世界の一部分ではあるが、総体の霊的世界の本質に影響を及ぼすような影響力はないと考えて差し支えない。
 そもそも、全宇宙に関する霊的統一の観念は、人類の言語の発達によってもたらされたことは事実であろう。端的な実証として、言語による観念思考が存在しない世界においては、すなわち人間社会以外の自然界は、一糸乱れぬ霊的統一のさなかに今でも置かれている。しかしながら その本質において直感された感受内容を直観として自らに説明しうるのは、体験者の大脳使用言語によってである。従ってその文学的表現は使用言語の表象能力に規制されてしまうのは致し方ないことでもある。
 
 誤解を恐れずに言えば、人類の歴史的事実からして 釈迦・イエスをはじめ、霊的覚醒に至った人物が過去においてその周辺の人々に対して語った表現は 、その生い立ちによる使用言語によってなされたと思われるが、自らの霊的直観を適切に表現しうる言語がないために、その本質を的確に把握・認識できずに終わっている。霊的覚醒者当人が把握・認識できないことを、他人に理解させることは、よりいっそう困難なことである。それがため、霊的覚醒に至ったものは、時の社会において、人間的には非常に孤独な存在とならざるを得ない。
 霊的覚醒は,覚醒者自身に自らの覚醒内容を他者に説明しうる能力を保証するものではない。人間社会において生活する人々に、人間界の既成言語・既成概念を利用して霊的世界を解説しようとする試みの成否は、覚醒者自身の表象能力の問題ではなく、使用言語の表現能力の問題なのである。
 
 霊的覚醒者に、対等な人間としての話し相手はできない。霊的覚醒とは否応なしに自らの存在と全宇宙との霊的統一を意味する。そこにはもう私は存在しない。私としてではなく、全宇宙の霊的存在の一器官として、直観を述べるしかない。
 そんな霊的覚醒者にとって、人間社会の様相はとうてい納得のいくものには映らない。全宇宙の霊的平等からして、人間界における宗教も自然科学も霊的平和に寄与するとはまったく考えられないからだ。
 
 霊的覚醒者にとって人類にあるのは希望ではなく贖罪のみである。自然を征服しおのが利便に供することで築きあげられた人類文明は霊的自然界に対する冒涜以外のなにものでもない。霊的には盲目とさえいえる現代人間社会での目に余る現象に、同じ肉体を持つ霊的知生体としていかに対処すべきなのか?ゲーテ・シュタイナーに通ずる言動は現代人間社会におけるキリスト教的霊的覚醒者の孤独の表れとして共感される。
 
 では、現代日本にカタカムナを再認識させた楢崎皐月はどうだっただろうか。やはり彼も孤独だったようである。
おそらく彼がカタカムナを科学的観点から考察した初めての人類であったことは間違いないだろう。当時の日本人としては、ずば抜けた物理科学的常識を身につけた人物であったことが相似象学会に寄せた解説原稿からも伺われるが、そのことが 明治維新以来失われつつあった 日本民族の霊的な状況修正よりも、欧米主導による 自然科学文明の軌道修正へと その矛先を向けたことも無理からぬことであったと思う。

 で、僕はといえば、たとえようもなく孤独である。30年にわたる流通システムのもとでのものつくりの生活。カタカムナとの出会いがなければ自殺という選択肢が比重を増していたろうことは間違いない。鬱病という精神状態はまったく無理からぬものであったとも思う。ただひたすらカタカムナによる脳内観念の置き換え作業と人間社会の現状分析を続けつつ、人間社会のシステムに依存しない生き様を模索しつつ、妻と息子と共に霊的二重人格者として普通に多忙な日常生活をおくっている 。

アカアオアヤノサタマリ(現潜極限飽和安定律) [カタカムナ最前線]

楢崎皐月のカタカムナ潜現重畳理論にもとづく、超対称・展心カタカムナによるカムヒビキ解析
楢崎の他界以来、相似象学会によって継承されてきたカタカムナに関する研究は、宇野多美恵会長の突然の他界によってさらなる試練の時代を迎えている。

 楢崎の提示した、カタカムナの理論的解釈に関する検証作業を進める上で最大の障害となることは、宇野会長が再三再四にわたって警告し続けた現代人の感受性鈍化であるコトは疑う余地がない。しかしながら原典の声音符・図象符に対する幾何学的解析もまた重要な要素として取り扱うべき課題である。

 カタカムナ原典に見る表記は上古代人による究極の抽象である。これは感受性の鈍化した現代人にはあまりにも単純すぎるがゆえに難解であった。オツムテンテンの現代人にこれを理解させるには逆に具象化すればよい。

 アマ・カムフトマニとは、タカミ・カムミの現・潜超対象の重畳する偶構造であると楢崎は解読した。それは正反逆位相の相似象(アカアオムカヒ)として潜態粒子(クミヌマリ)を構成している。つまり具象化すれば二つずつのマリによって表現されるわけだ。さらにマワリテメクルの具体的旋転循環位相は原典図象の同心円にあらずとの直観により発明されたのが展心カタカムナである。
カミ000.jpgアカアオアヤノサタマリ
 ヤタノカの旋転循環によりアマハヤミ内においてはタカミカムミの偏在によって現潜バランスのカタヨリが生じる。

 上の図に示してあるのは赤玉のタカミと青玉のカムミの旋転循環による集積位相であるが、タカミカムミの軌道は逆位相の対称をなしている。球心部と左右両側部には赤青の部分があるが、ここはタカミカムミが旋転循環しながらも重ならない部分で、タカミカムミの性質はそのままである。それに対して紫色の部分がアヤシノリといわれる潜現重複部分である。これは潜現いずれの性質にも遷移可能な中性的領域であり、ヤタノカの互換重合の要ともいうべき領域である。      
 

このように、カタカムナの内部構造はカム・アマから受け継がれたアカ・アオ・アヤのサによって互換重合性が成立する。

 トキトコロノマリ.jpg天然自然現象における相似象発生原理を展心カタカムナによって解析することができる。

 楢崎理論によれば、正反対称偶構造・対向発生の原理に則ってあらゆる現象が発生するわけだが、様々な物質構造が形成されるにはヤタノカの一重から八重の重畳によるモコロシマによって様々な物質的現象が発生する。その場合のミクマリ内におけるタカミカムミ間に作用する力線構造を示したのが右の図だ。

  アマナカムナの親和による引力線を緑色で示してある。この力線構造はタカミカムミの旋転循環が連続することによって現象素粒子の物理的構造に相似象的に波及すると考えられる。

  この図に示された幾何学構造の特色について若干の解説をしておく。中心がトキである。タカミカムミのヒにおける接点であり、アマナ・カムナの旋転軸でもある。ただしこの中心点は、あくまでもヤタノカ単位の旋転循環における相対的位相であって、現実世界における物質構造の成り立ちに直接的な影響を及ぼすフトヒ・アサヒヒビキマノスベシによって森羅万象を発生するに至る。

 トキを中心として描かれた黄色い五つの同心円はイツノワといい、アマナ・カムナの中で旋転するタカミ・カムミのヤタノカ別の中心位相を表している。最小の円がヒ、次がフ・ヤ、三番目がミ・ナ、四番目がヨ・ム、五番目がイとなっている。タカカム.jpg
 

タカミカムミの中心位相は、最小単位の引力斥力の発生軌道準位とも言える。

  カタカムナの幾何学的解析を進めれば進めるほど自分が科学者でないことが非常に残念に思われる。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

カタカムナ応用上の注意 [カタカムナ最前線]

 現代日本においてカタカムナの応用を考えるあたって注意すべき点は、明治維新前後の外来語、とりわけ欧米語から明治以降に翻訳された日本語と、カタカムナ由来の日本語の分別を要するということである。その意味からいって明治に入って最初に編纂された国語辞典・言海は非常に参考になる。
 明治維新後西洋の学問を積極的に取り入れるにあたり、それまでの日本語にない概念や学術用語がたくさん造語されてきた。中でも現在使われている自然という概念は人類と対峙する存在をさし、本来自然発生した人類の存在と矛盾することに最大の注意を要する。
 

カタカムナにおいては、マというひとことが、あらゆる自然現象の総体として、マクロ・ミクロ両方の意味で使われる。
 マは天然自然のありとあらゆる現象事象、つまりは時空間のあらゆる次元をさし、マカタマとして相似象的に球体をなす。あらゆる電磁波、すなわち波動成分もトキトコロノハシマリからの膨張球・マリとして認識されるヒビキである。そしてなにをおいても一番問題なのが人間である。
 

カタカムナいうところヒトとは現代日本語でいうところの人間ではない。人間はもともと仏教用語の、じんかん、すなわちヒトとヒトの合間、転じて社会の意味であったが、明治以降ヒトの意味で使われるようになったもので、大槻文彦による言海には『過ちてヒト』との義が載せられている。
 

 我々の脳・アタマは感受性・ミキキによって得られた天然自然情報・ヒビキの処理と、言語コトノハによって構築された観念・イシキの両方を同時に処理している。言語入力以外の感受性によって得られた情報・ヒビキは、観念に関係なく細胞単位で処理・ミシロウケされるが、言語は脳細胞に特化されたオペレーションシステムとして機能し、交感神経・副交感神経の双方に影響を及ぼす。このことは自然界における人間社会の侵略的破壊活動と相似象なのであって、一個人の観念による内的浸食と考えるべき現象である。相似象学会云うところの、言語の自然サ量が問われる最大の課題だといえる。
 その意味合いからして、カタカムナによる、現代脳へのクリーンインストールがもたらす、自然サ量の回復が、人類と地球自然の完全和解の鍵となるに違いないと思える。


人類の幸福が自然にとっての不幸であってはならない [展心に問ふ]

 

 展心に問ふ

 位相解析001.jpg

健次郎

「今、カタカムナの末裔として考えるに、我々日本民族がとるべき行動はいかなるものとお考えでしょうか。」

展 心

「いまこそ我らは深く胸に刻まねばならないのです。人類の幸福が自然にとっての不幸であってはならない、というもっともアタリマエなことを。」

健次郎

「人類による幸福追求のあらゆる活動が、地球自然や生命に対して驚異であってはならない、ということですね。」

展 心

「これは地球憲法として地上の最高法規とすべきですね。実践的にはカミタノミにつきます。これは神仏に対する祈りや、祈願・祈祷と意訳されていますが、本来の意味は全く違います。」

健次郎

「神社仏閣などに詣でることではないと。」

展 心

「神社仏閣が結果的にイヤシロチに立地している事実からすれば、無駄ではありませんが、目的はイツキノリによるミノタメです。」

健次郎

「環境の美感電圧による天然充電、アマウツシ・カムウツシということですね。」

展 心

「そのとおりです。カミダノミというのは儀式ではありません。宮司や僧侶に拝んでもらっても何も変わりません。自分でタノムしかないのです。これはどちらかといえば精神的疾患に対する天然物理療法であるといえます。まずはマトモサのミツケです。マトモサは人間状態を解放して静観すれば誰にでも判断できる霊的水準です。これを古来日本民族はカミサマと呼んできたのです。そんな天然の霊的巨大勢力をカンジ、カミサマとして自らミツケル。生命体としてのまっとうな判断を鈍らせないための非常に高度で、簡潔な文明的帰結だといえます。」

健次郎

「環境中の髙電位に平衡安定した静電気による癒しですね。」

展 心

「イヤシロチの霊力というものは、電気勢力に限ったものではありません。ミツゴノタマシヒであるイカツミ・マクミ・カラミの均衡バランスが肝心なのです。そして人としての感受機能を極限まで発揮するための条件となるのが、クヒノサトリです。これは地球上のあらゆる生命現象にとってのトキトコロの発生点である地球の中心から放射状に広がるヒビキを流通させねばなりませんので、非常に重要な霊的体勢といえます。人の解剖学的構造からして、骨盤の前後傾斜角度を決定する仙骨の安定が最も重要な要素であるといえます。」

 

つづく

 

 

 


前の8件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。